サードエイジの草分け

200年も先駆けたサードエイジャー:伊能忠敬

 日本の小学6年社会の教科書1)にも取り上げられている伊能忠敬(1745(延享2)1818(文化15))。佐原(現・千葉県香取市)の名主で商業を営んでいた忠敬は、隠居後、測量法を学び、全国を17年間もかけて自費で測量し、日本史上初めて正確な日本地図・大日本沿海輿地全図の完成に貢献しました。

18歳で伊能家の婿養子となった忠敬は、商人としての才覚を表し、かなりの財産を築きます。50歳で家督を長男に譲った翌年、江戸に出て、幕府の天文方を務める19歳も年下の高橋至時に師事し、測量・天文観測などを学びます。

彼は50歳で隠居、今で言う退職をした(サードエイジの開始)わけですが、今にあてはめれば65歳を過ぎてから新たな学問を修め始めたことになります。速水融によれば、宗門改め人別帳から求めた信州諏訪地方の2歳児の平均余命は、1726(享保11)1775(安永4)年で男42.7歳、女44.0歳でした2)。したがって、当時の50歳は平均寿命を5年ほど超えた年齢であり、今の男性の平均寿命約80歳からすれば、85歳で退職した後、プライベートで学問を開始したとも言えます。

まして、測量を開始したのはさらに5年後の56歳で、当時でいえば相当な高齢であるにも拘わらず、その後17年間にわたって日本全国を旅しています。また、17年間の測量には人手や相当な人件費と旅費を伴いますが、それらに自ら商業で(セカンドエイジ中)築いた財産を充てることができました。

今でこそ日本には老人大学というサードエイジャー向けの学習機関(サードエイジ大学にあたる)がありますが、江戸時代には子供向けの教育機関である寺子屋や藩校しかありませんでした。寿命などものともしない、相当な意志がなければ、当時の平均寿命を超えた年齢から学問を5年間もかけて修め、その後17年間も全国を測量して回ることはなかったでしょう。また、高額の私有財産がなければ、日本全国を測量することもできなかったはずです。

ラズレットが説いたサードエイジを過ごす三要素、すなわち退職後の健康活発積極的な態度を携えていたからこそ、忠敬は自ずと寿命が延び、このような偉業を遂げたのでしょう。平均寿命が短く、年金制度などまだ存在しなかった当時の日本では、ラズレットの指摘したサードエイジ出現の社会的経済的条件(『サードエイジ出現の社会経済的条件』参照)はもちろんまだ整っていませんでした。しかし、強い意志をもって、セカンドエイジで築いた財産を有効に費やすことで、忠敬には社会的経済的条件(寿命の延びおよび自らの生活費や十分な人件費と旅費)が整ったのです。

忠敬は72歳で日本全国の海岸線の測量を終え、74歳でこの世を去りました。友人や弟子たちが彼の偉業を引継ぎ、実測に基づいた最初の日本地図を作製しました。忠敬の生涯には長生きの秘訣が隠されています。それは、学んだ知識を生かして自ら歩いて日本全国を仲間と共に実測したことです。長生きの秘訣として、2012年に101歳となられた京都府長岡京市の男性田中さんが「頭と足を使うこと」と語り3)、ミシガン大学のジェームス・ハウス4)は「仲間との行動」を発見しました。今からおよそ200年ほど前の人物であるにも拘わらず、忠敬の生き方はすでにサードエイジャーそのものだったといえます。 

 

注記

伊能忠敬の画像:くつろぎの宿 潮富荘、http://www.mjnet.ne.jp/siotomiso/oyado.htmより。

1) 文中の伊能忠敬の生涯についての記載は、 新しい社会6上 東京書籍 平成20年と26年発行版による。

2) 公益財団法人 ひと・健康・未来研究財団(2012) 6.日本人の寿命―倭国から江戸まで

http://www.jnhf.or.jp/colum/6-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%AF%BF%E5%91%BD-%E5%80%AD%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%BE%E3%81%A7.htmlより

3) 長岡京市(2012) 97日 長寿を祝い記念品を贈呈 http://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000002134.htmlより

4) House, J. (2012). http://www.bluezones.com/2012/04/friends-nourish-the-body-and-soul/より